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日記だよ

大雪大好きカンパさん

満を持してやってきましたよ。カンパさんです。

24日、25日にかけて最強寒波が日本列島を上から下まで覆って上空にマイナス50度とかの世界を作り、空気中の水蒸気がドンドコ雪として地上へ降下し下界は大惨事と。まあそういう感じらしい。

自分が住んでいる潟上市も最高気温 -5℃、最低気温-10℃となかなかの寒さです。空は青空、地上は地吹雪。

 秋田県では、強い冬型の気圧配置の影響により、24日昼前から25日にかけて、沿岸を中心に雪を伴った西よりの暴風となり、海上では25日は大しけとなる見込みです。秋田地方気象台は23日午後5時5分、「暴風雪と高波及び大雪に関する秋田県気象情報第3号」を発表し、暴風雪による建物への被害、猛ふぶきや吹きだまりによる交通障害、高波に警戒するよう呼びかけています

家人がスコップ持って大喜びで雪かきしているけど、すぐ「春が来たら起こしてくれ」とか言い出すんだろうな、と予想している。

もともと、自動車の修理に25日を入庫予定にしていたのだけど、寒気の到来を聞いてキャンセルしていて、それは正解だった。

YouTubeのニュース番組などでは関東のインタビューとかで雪が降って普段通りの生活ができなくて困る、という人を映しているが、こういう寒気や大雪警報があった時、さっさとそれ用の生活リズムにシフトして「思ったよりも降らなかったね」となったらラッキーなのか、なんとか普段通り生活しようとして「やっぱり厳しかった」と嘆くようになるかの違いがあるよな、という印象を持ったりする。自然災害によって通常通りの行動が取れなくなることに対して納得していない、とでもいうのか。この辺の感覚は面白い。秋田に引っ越してからパキッとそこら辺は切り替わった気がする。雪国の人が「毎年のことだからね、大変だけどさ。ただこんないきなり降るとびっくりするよね」とうんざりしながら粛々と雪かきしている映像とかを見ると、「これが常在戦場の心構えや!」と勝手にドヤ顔してしまう。

この雪いつまで降るかなー。明けに東京出張予定はしていて、最強寒気はさすがに落ち着くとは思うんだけど、続くと困るところではある。

バリントン・J・ベイリー「ゴッド・ガン」

読んだ。よかった。

読んだことなかったのが悔やまれる、好みの短編集だった。でも邦訳されているのは本作含めて短編集は二冊しかない。

アイディア一つでシュッと一つのお話が完結していて、でもストーリーの外側に世界がまだまだ広がってそうという、窓を通して異世界を見ているような気分になる読後感がある。

長編カエアンの聖衣は特殊で意思すら持つような衣服が出てくるお話らしく、そちらも読みたい。モチーフだいぶ突飛だけど、どこかで聞いたな・・・? と思ったらキルラキルとかグレンラガンの脚本描いてる中島かずきが解説寄せてて影響受けたと書いている。なるほど。

映画「9時から5時まで」

ディズニープラスで視聴。特に前情報なしで、なんとなく目に止まったので視聴したけど面白かった。

1980年のアメリカのヒット作。生まれる前だ!

先日「宇宙へ」を見た直後にこの映画を見ることになったのはなんか運命的な感じがする。女三人の凸凹コンビみたいな連中が大会社で重役相手に立ち回りを演じる。個人的にはニヤリと笑って「やるわね...」としか言わないおばちゃんがよかった。

ウーマン・リブ運動の盛り上がりの残滓というか流れがあるんだろうか。女だって男と能力的な違いなんてないんだ、旧弊に女性を見下す男はカッコ悪い、という切り口が繰り返し出てくるけども、映画のテーマであるとかメッセージであるというほどではない。ライトな、世相を反映しているという感じ。コメディで取り上げられる程度には、強い女性に男が下される構図がありふれたものになっていたんだろう。

この時期の映画の「大きなビルディング」みたいなものを捉える画角がなんとなく好きです。

メアリ・ロビネット・コワル「宇宙(そら)へ」上・下

読んだ。まあまあ。最後まで楽しく読めたけど続編絶対読みたいとかではない。

作者は「操り人形師としても活躍し、夫とシカゴに暮らしている」多彩な人。後書きに実際の宇宙飛行士やパイロット、ロケット科学の専門家などが執筆チームに参加していることが書かれている。「[ここにパイロットのジャーゴンを書く]と書いておくとそれっぽい文章に置き換えてくれる」面白い関わり方をしているなと思いました。

内容は1950年台にワシントンを隕石が消し飛ばしたIF世界線の話。コンピュータが発達する前に宇宙開発の機運が高まる。主人公の女性は計算士(計算をするのが専門の人々)として働いているが、やがて宇宙飛行士を目指す女性としてやっていくぞというお話。読み終わるまで気がついてかなったけど、全然完結していない。続きがあります。続きは「火星へ」なのかな。

計算手(けいさんしゅ、英:computer, human computer)とは、電子計算機が実用化される以前の時代において、研究機関や企業などで数学的な計算を担当していた人間のことである。現在では「コンピュータ」と言えば電子計算機を指すが、当時は "computer" という語の成り立ちが表す通り「計算する人間」のことであった。

計算する専門職は実在した職業。

さらに第二次世界大戦中は徴兵によって男性研究者が減ったため、計算手は専ら女性の仕事となった。ENIACの最初の6人のプログラマは、弾道計算のための計算手として雇われていた女性の中から選ばれた。

このあたりの歴史的背景感がある。

全体としては面白いと思った。

上から下まで異人種、ユダヤ教、女性などの差別意識への闘争がひたすら描写されるのと、主人公の女性が旦那とメイクラブ繰り返すのが退屈になってくる問題はある。ある意味平坦というか。主人公は他の人物の目線をめちゃくちゃ気にしていて、「人の目を気にする」属性自体にはストーリー上の必然性はあるのだけど、誰かが誰かを嫌いだとか、誰かが誰かを誇らしく思うだとか、そういう感情的解釈や関係性への解釈の描写がめちゃくちゃ多い。解釈と書いているのは、あくまでも主人公の視点から「この人はこの人のことを嫌いだ」とか「気に入らなく思っている」とか「ショックを受けている」とかそういう解釈をしているから。気持ちの想像の描写が多いのだよね。それから、家族の気持ちを想像するだけで涙が止まらないとか、気に入らない相手だからあらゆるところで当てこすりを言うとか、女性グループで仲違いをするシーンで「私たちは本当の親友になれた」みたいなまとめ方になったりとか、そういう典型的なやりとりが多いのも冗長には感じる。ただ、このステレオタイプさというのは、アメリカの典型的で愛され続けたステレオタイプなんだろうな、という気もするんだよな。これをありふれたキャラクター造形だとして笑うのは多分お門違いなんだろう。ありふれ方の一貫性について、自分が読み取る素養がない。

アメリカ近代史がもうちょっと身近だったら出てくる歴史上の人物、団体、出来事のパラレルワールド具合をもうちっと楽しめたんだろうな。

ただのヒールだと思っていたパーカーさんが実はちょっとツンデレかなと思わせるシーンは良かった。こういう、実力があってお互いに嫌いあってる相手が実はこっちを認めていた、という展開には弱いですね。はい。

猫用のドア

リビングのドアに試しに取り付けた。ペットクグール2である。「二作目が出るなら売れてるという証拠」という妻の洞察に基づき購入した。扉の板をゴリゴリとノコギリで抜いて両側からフレームを取り付ける、簡単だけど取り返しはつかない作業が発生する。

サイズ感

 

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ダリ(雑種・元野良猫)はすぐに出入りするようになったがニュートン(ラガマフィン・ブリーダー産)は自分でどうしても猫ドアを通過することができない。

 

ニュートンはいつも猫ドアの前にちょこんと座ったまま待っている。人間が猫ドアを開けてやるとくぐることができる。自分の頭や前足で扉を押すのが嫌らしい。

 

コレではいかん,教育だ、とニュートンは夜もリビングに閉じ込めてしまうことにした。猫ドアを通り抜けなければ出られないリビングにしたのである。いつも夜は寝室の人間のベッドに乗り込んでくる習慣なので、これで人間に頼らず猫ドアを攻略する気概が生まれるのではないか。

 

一昨日の夜から始めた。その夜はニュートンはリビング隣接の和室のこたつで寝ていたらしい。

 

昨日の夜、夜更けになって気がつくとニュートンが寝室のベッドの上で丸くなっているのを見つけた。見つけたというか寝ている足の上なので重くて気がついた。すごい!  猫ドアを通れるようになったのや! テンション上がる俺。やった、やりました、教育の勝利です。

 

しかし、起きてリビングに向かうと、猫ドアを取り付けた人間用のドアが開いている。猫ドアを取り付けた結果,猫は人間用のドアを開けるようになったらしい。どうして。。

ルールが過剰に厳格で、現場で曖昧な運用がされている。直そうとすると現在のユーザーに不利益が生じる。

いつも自動車に乗ると、「世の中のどこにも制限速度+10kmまでOKなんてルールはないじゃないか」という気分になる。みんなナチュラルに法律に違反をしていて、でも取り締まる側と取り締まられる側がなんとなくの社会的合意に基づいて統制と秩序が行われている。不満だ。

さて。

引越しする際、いろいろ補助金をアテにしていて、じっさい助かってはいるんだけど、よく読むと対象となる条件がかなり厳しかったりする。「これは無理なのでは」と諦めそうになるのだが、リフォームの業者さんに話を聞くと「ああ、これは県がちょっと厳しすぎるですね。でも要項はこう書いていても、実際はこういうところが考慮されるんで、とりあえず出してみて、担当者から指摘されたところを調整していくようにしましょう」と言っていたりする。で、最初は確かにダメなんだけど、県や市の担当者とのやりとりを経て、制度の趣旨はこうなっていて、大事なのはここで、形式的でしかないところはここで・・・という情報を教えてもらえる。

「厳密に適用しようとすると誰もこの制度で補助金受けられませんよ」とのコメントを受けたりする。それは担当者の匙加減というか、大きすぎる裁量というか、不正の温床なのでは...? という気持ちになるわけだ。「制限速度を守っていたら事故が起こるので流れに乗りましょう」と同じ座りの悪さを感じるわけです。

これは補助金助成金のシステムが、言葉通りのルールや仕組みではなく、もっと大きな再分配とかの構造の一部でしかなく、要項のそれぞれはでかい目的のために作文されているけど完成度は低くて、完成度低いのを現場で適当に修正しながらやっていくぞという姿勢なんだろうな、と思う。そしてエンドユーザーに迷惑をかけないように現場でなんとなく回している、という実体のある善意を感じる。

凸凹した制度でもエンドユーザーがけっきょくはあんまり困らないので、「じゃあこんな感じの制度でいいか」と存続していくんだろうな、と納得してしまう。でも今の仕組みは、何度も県や市に「これどーすかね」と出して、担当者の温度感をもって指摘に対応して、ということを繰り返す必要があって、これは一般の素人にはなかなか大変だし、「補助金受けられるなら移住を決めるけど、もし補助金出ないといなると厳しいなあ」という人の足を止めてしまうから、よくないことだと思う。それほどステップを踏まなくても自分たちの首を絞めている。自分たちというのは県民です。これは移住者支援の補助金の話。

そうすると、自分が迷惑を被ったとして声をあげるのか。これが難しいところで、自分を「この不自然なルールを厳格に適用すると補助金を受けられない」立場だとして公に設定すると、つまり自分も大きな不利益を被ってないといけない。当然、曖昧な運用に乗って補助金受けた方が得なわけです。これは役人が賄賂もらって不正を見逃すのと何が違うんだろうか。自分の不利益を飲んで「これは不適切だ、直さないとよくない」と自治体に言っていけるかどうか、という問題設定なのか。

現実の世界では、同じような不利益を被る人たちが敵にもなるはずである。つまり問題を認識すると同時に制度変更までできないとダメなんだろう。そして遡及して適用はしませんよと。経過措置ももうけますよと。よくみる制度変更のストーリーだ。こうなっていたのか。うーむ。

不完全な計画が他の人に見えると不安を与えてしまう

自分は情報が不足している状態で不完全なプランを描きがちであるな、と気づきがあった。「まず全体像の自分なりの絵を間違っていてもいいから書いてみよう。それを細かく修正していってみよう。途中でなんか違うと思ったら大胆に捨てよう」みたいなやつなんだけど、周りでそれを見ている人は「こいつの言ってることコロコロ変わるな」となってしまうので、独り言的なものであったとしてもちょっと気をつけようと思う。