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日記だよ

失敗について

失敗に対する姿勢について考えている。

この失敗というのは、全滅エンドではなく友情エンドの話である。TrueエンドではなくGoodエンドの話である。狙った結果が十分えられなかった時の話である。

例えばプロ経営者が我が社の株価を10倍にしてくれと雇われる。その人は任期を務め上げ、さまざまな環境要因の中で株価を3倍にした。さて、これは失敗なのだと思う。ここでの定義はそうだ。

これを失敗として向き合うかどうかは人によりそうである。外に対してと、自分の中でそれぞれ違うかもしれない。経営者と株価の題材であれば議論が湧くだろう。では、日々の生活に置き換えてみよう。学校のテストとか、仕事の売り上げ目標とか、早起きの成功確率とか、ダイエットとか、筋腫とか、なんでもいいけど。失敗と捉える範囲はどうだろうか。いや、そもそも失敗とは何か。

成功とはいえず、否応なく改善を要すると判断されることを失敗と呼ぼう。ここではそうする。「改善が可能」ではなく「改善を要する」である。つまり失敗すると改善タスクが発生する。言い換えると、改善タスクが発生しないなら失敗ではない。失敗したのに改善タスクが生まれない、積まれないとしたら、それはなんかのサイクルが回転不全を起こしている。

では、自分のやることなすことについて、それを自分がどう捉えているかと考えてみると、改善タスクが発生するポイントはあんまりないのだということに気がついたわけです。「次からはこうしよう」はけっこうあるのだけど、決意には未来に対する強制力はないので、割とダメなやり方を繰り返したりする。次の機会がやってくる前に対策を立てることはあんまりない。じゃあ、やってることのほとんどは成功に終わっているのか、というと、なんかそうでもない気がする。つまり、成功でも失敗でもない、灰色の領域にほとんどの仕事は着地している。少なくとも自己認識の範囲ではそうなんだと思う。

よく「成長のためには失敗が大事」という言い方をしたりするけど、これには語弊がある。つまり本人が手痛い挫折に繰り返し直面するべきだと別に言いたいわけではないのだ。今回と同じやり方はしないぞ、次はこうやってもっと良くやろう、という向き直りが多く起こるといいよね〜ということを言いたいのだ。そうだそうだ。

歳をとると失敗が減る。しかしそれはいいことではないと思う。なんとなく、成功でも失敗でもないグレーなところを広げてしまっている気がする。自分の行いの結果をただの現象と捉えず、成功なのか失敗なのか、しつこく考え続ける元気が衰えなければいいなぁ。そんなことを最近。