「クリスマスまで毎日カレンダーに穴をあけて嬉しいお菓子などを取り出す」などの原体験がないのであんまり盛り上がらないんだよな。正月までだったら「もういくつ寝るとお正月?」という感覚の延長線上でわかる。枕の下に面白いことを書いた紙を置いておくみたいな感じでね。それは宝船か。まあとにかくそういう、指折り数えて楽しみにする気持ちです。うん。
ハロウィンもそうで、仮装して盛り上がる、というのは昨今の風潮として、子供の頃にじゃあ「トリック・オア・トリートだぞっ」と近所の家を訪問したこともされたこともないので、ハロウィンだな〜って季節感がない。ハロウィンだなーそわそわするなー、とそもそも思わないので、せっかくだから騒ごうぜ、という感じにならない。「せっかくだから」が発動しないんですよね。
つまり「子供の頃のワクドキによって現在のものごとに対する心情的な盛り上がりが左右されている」という感覚があります。これは個人的なものなんで他の人がそうだとは思ってないけど、自分がそうなんだーという発見が最近ありました。これは子供時代を卒業できていない、という話でもあるかもしれない。高校や大学になってから今まで、さまざまなイベントや出来事に触れてきたように思うけど、実際問題として大喜びしてしまうことって幼少期とほとんど変わらないか、延長線にあることなんだよね。うーむ。40の大台も迎えたというのに、ちっとも大人になれていない。「100インチスクリーンでレンタルビデオを見て立派なステレオで臨場感あるサウンドがー!」みたいなやつは完全に子供の頃の夢よ。ネバー・エンディング・ストーリーとかバック・トゥ・ザ・フューチャーとかカリオストロの城とかを大スクリーンで見たいのよ。書斎を作って本に囲まれるとかそういうのは大学時代に本で埋め尽くされた部屋で本の上に布団を敷いて寝るような状態で生きていたのでけっこう充足したし、美味い酒と一緒にうまい飯を食う、みたいなのはだいぶ欲求が満たされたらしくそんなに発作的な購買活動とかには最近は繋がらない。紙の本への執着も消えてKindleで気軽に買うようになったし。それでもまだ残ってるものは根深いね。
クリスマスの心の盛り上がりは薄いけど、良い正月を迎えたいという渇望はある。
良い正月というのはしんしんと降り積る雪の中を、踏み締める足音と、耳や帽子にあたる雪片の音だけを聞きながら、ポケットに手を突っ込んで初詣に出かけるイメージです。近所の人と会釈だけしたりして歩くんですよ。神社には人が集まり、ぱちぱちと焚き火があって、みんなで無言で年が明けたことを告げる鐘の音を待つ。静かで、実際には子供とかが走り回ったり、家族連れやカップルや友達同士がおみくじを見せ合ったりするひそひそという声があるわけだけど、それでも静かなんです。そういう正月のイメージがあり、そこへ向かって年末というのは一日一日流れていく。・・・という11月〜12月の空気感が心の底にあって、大晦日へ近づく暦を毎日見る感覚はその延長に実在するけど、クリスマスは馴染みが薄い。七面鳥というか鳥を食べてお小遣いがもらえる日、というくらいです。風景とか季節とかそういう肌感覚と結びついてないからかな。あんまりこう、盛り上がる要素がない。蓄積された気持ちがない。
お盆はちょっとあるんですよ。木の棒に赤い紙を細く切ってくっつけて作る彼岸花とか、それを座敷に座りこんで作っている祖母の姿とか、お墓に柄杓で水を流しかけるときに、隣に佇む無縁仏の地蔵様に少し申し訳ない気持ちになったこととか。そういう、思い出すとさまざまな記憶が繋がって、遠くから揺さぶってくるものがある。
自分がいかにも日本の田舎の子供だった、というだけなのかもしれない。ただ、残念ながら節分とか端午の節句とか七夕には特に思うところがないんだよなー。