読んでる。読んでた。読み終わった。
> 認知症のノーベル賞作家が、私は一キャラクターでね、と考えたとしたらーーその可能性はあるーーどこかに作者がつくられてしまう。創造されるのだ。現実の側に。すなわちここに。
よくわからん異世界で文豪をもじった名前のおっさんたちが電車に揺られて「京都は三つある」などと呟きながら進む話と、坂口安吾が探偵として満州と東北の重なり合った異空間に旅していく話と、京都に住んで小説を書いてる人の話が交互に語られつつ謎の力でクロスオーバーしていく。物語内メタ物語が直接語られるみたいな作りの本で、先日読んだ「南無ロックンロール二十一部経」にも少し近いノリを感じる。
坂口安吾パートは東北の貧しさや周縁性が取り上げられていて変な身近さもある。東北から東京に出稼ぎに来ている人々が、中華の東北である満州国へと繋がっていく、みたいなシンクロ感をパワフルな文体で書いていくんだけど、宮沢賢治がラジオを通じて少年にイタコするあたりとかは「ウムまあそういうものなんだろ」という気分になって勢いがあります。
後半、日本の歴史と森の由来について、満州と満洲の話、東北の民が貧しく新天地を目指すという流れ、日本から見た都、宮沢賢治の作品と晩年といった絡み合ったものの見方がドバドバと重苦しく積み重ねられて・つながっていきます。切支丹と長崎の原爆のつながりとか、なるほどそういうことか、と、それ繋がってるとみなすのは流石に偶然なのでは、という二つの気持ちに挟まれるわけなんだけど、本当にあらゆる角度から相似や接続がみなされていて、これとこれとの相関についてアリとするならこっちも否とは言いづらい...となっていく。そして情報量多大で飽和しつつある読み手にとって、なぜかコケコッコーとかワンワンとか動物の鳴き声が常にシーンの側らにあって、ノリがわからんところであります。
語り手も誰かに現在について語りながら「それで俺はいま何やってんの?」「それほんと?」と認識を新たにしつづけるために、語り手も現在進行形で悩んでるのかなと心配になったりする。
また読みたいが、しかしまた読むのかこれを? という慄きもある。