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日記だよ

親、教師、上司、先輩が、わからない相手に繰り返し粘り強く言って聞かせているとき、相手も粘り強く対話を試みているかもしれない

たとえばあなたが親、教師、上司、先輩のいずれかとして、

子、生徒、部下、後輩に対して指導的な気持ちで接しており、

うまくいかない・指示を聞かない相手に対して粘り強く、繰り返し説明や指導を行っているとき、

相手もまた、否定されたような気持ちと闘いながら、

繰り返し話に付き合ってくれている。

相手が指導を乞い願っているなら、あなたの粘り強さは感謝されるだろうけど、

あなたの側により強く存在する責任感や義務感に従って行動しているならば、

その行動は相手にとっては押し付けに他ならず、

あなたの責任感や義務感をケアする責任は相手にはないというのに、

つきあってくれているのだなあと、

そうさせている、何かの精神性や力とはなんだろうか。

相手もまた子、生徒、部下、後輩としての責任感・義務感に従っているのだろうか。

「どうして言った通りできないんだ」という態度が顔に出てしまっているあなたは、

「この人は要領を得ない説明を繰り返してわたしの行動をずっと否定するけど、この人は何かわたしのことを考えてくれているような気がするので、もうちょっとつきあってあげよう」

という相手のフォロワーシップのようなものに支えられている。

しかし、

要領を得ない説明、相手にとってフィットしない指導によって蓄積された、「なんでできないんだ」「言った通りにやりなさい」を繰り返された心の澱みたいなやつは、

案外だれにもケアされず蓄積していくかもしれない。

「ああ、そうだったのか」と昇華されれば、それは素晴らしいことだと思う。


まとまりのない雑感です。なんか対称性があるよな。「親の心子知らず」とはいいつつも、同時に「子の心もまた親は知らない」みたいな...。