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日記だよ

「じゃああれがいいならこれはどうなんだよ」

インターネットの発達で誰でもスムーズに過去の出来事や記事が参照でき、このときはこういう判断がされていた、この時は世論はどうだった、あの事件についてこの新聞社はこういうスタンスだった、などを並べて目にすることが(並べて発信する人が)増えた。人間は差分を捉える認知能力を持ってるらしいとどこかで読んだんだけど、記憶というのは曖昧で、目の前にあると解像度がまた違う。その結果、「常識にしたがった判断基準」がブレることが多いような気がする。

内面化した常識に沿って生きている人であれば、その常識が緩やかに変わっていくんだと思う。内面化した常識がない人は、都度都度常識のクライシスに見舞われるだろう。

常識に従って生きよう、という意識が強くても、参照する「世間の一般的な判断」がぜんぜん軸が見えなくて困っちゃう。そのストレスに耐えられなくると、キイっとなって、じゃああれがいいなら、なんでこれはだめなんだよ、おかしいじゃないか、と怒ってしまう。まあわかる。別に怒りはしないけど。

ダブルスタンダードを許せないみたいな倫理や正義の問題ではなく、社会で生きていくために外部の基準に沿って生きるということを要請されているにもかかわらず外部の基準が統一されていないという状態から極めて高いストレスを受けている人の不満、というふうに見ている。そのストレスを受けることは自分で選んだものではなくて、(社会の中で生きるということが自己決定というならそうかもしれないが、他の選択肢がほぼないので)そのストレスに耐えられないのは本人の弱さであるとして、その弱さは果たして責められるべきか、というとそうでない気もする。

自分はなんとなく「この軸に従って判断することにする」「ここは自分の感じたことを優先する」などの決めを行なってそういう外部基準に引っ張られる混沌を回避している。世間と自分のズレについては、まあ仕方がないと許容することにしている。ズレていることは悪いことでも責められる筋合いもないという決めを行っている。ポイントはリアルタイム処理しようとしないことです。 これは困っている人にはおすすめしたい。周囲を多少は困らせることもあると思うけど。