前にカエアンの聖衣を読んで感銘を受けたので、あらためてキルラキルを見返した。
大変良かった。しかし後半について記憶が曖昧になっていて、ヌーディストビーチの地下でワイワイやったり純潔を装備したりしたあたりからほとんど初見の気分で楽しめた。
こんなに盛り上がるのに、キルラキルといえば学園・転校生・謎の教師・部活動、って印象と記憶だったのは面白い。
おそらく、敵と味方、因縁とメカニズム、タイムリミットと勝利条件が整理される段になると、「いつもの俺たちの大好きな熱血展開」になっていくため、大好きなのだがキルラキルならではの面白さ(の記憶)が少なくなってしまい、記憶の中で圧縮される時に印象が欠落してしまっているのではないか。などと考えている。これはなんかもったいないことだ。
大量のコンテンツを摂取していくと、やがて物語が自分にとって「いつもの大団円にたどり着くために、何パターンかある類型のどの盛り上がりであり、そのためにどういう主人公がどうたどり着くのか」のバリエーションとして捉えるようになってしまうのかもしれない。それは極限まで類型化されたジャンルものの作品群とそれを楽しむファンの心理に近いのかもしらん。「みんな同じじゃないですか」「全然違うぞ!」というやつ。
見ている時はそんな冷めた楽しみ方ではないはずで、無心でウオオとなってるはずである。記憶の問題だと思いたいが。