いつも自動車に乗ると、「世の中のどこにも制限速度+10kmまでOKなんてルールはないじゃないか」という気分になる。みんなナチュラルに法律に違反をしていて、でも取り締まる側と取り締まられる側がなんとなくの社会的合意に基づいて統制と秩序が行われている。不満だ。
さて。
引越しする際、いろいろ補助金をアテにしていて、じっさい助かってはいるんだけど、よく読むと対象となる条件がかなり厳しかったりする。「これは無理なのでは」と諦めそうになるのだが、リフォームの業者さんに話を聞くと「ああ、これは県がちょっと厳しすぎるですね。でも要項はこう書いていても、実際はこういうところが考慮されるんで、とりあえず出してみて、担当者から指摘されたところを調整していくようにしましょう」と言っていたりする。で、最初は確かにダメなんだけど、県や市の担当者とのやりとりを経て、制度の趣旨はこうなっていて、大事なのはここで、形式的でしかないところはここで・・・という情報を教えてもらえる。
「厳密に適用しようとすると誰もこの制度で補助金受けられませんよ」とのコメントを受けたりする。それは担当者の匙加減というか、大きすぎる裁量というか、不正の温床なのでは...? という気持ちになるわけだ。「制限速度を守っていたら事故が起こるので流れに乗りましょう」と同じ座りの悪さを感じるわけです。
これは補助金や助成金のシステムが、言葉通りのルールや仕組みではなく、もっと大きな再分配とかの構造の一部でしかなく、要項のそれぞれはでかい目的のために作文されているけど完成度は低くて、完成度低いのを現場で適当に修正しながらやっていくぞという姿勢なんだろうな、と思う。そしてエンドユーザーに迷惑をかけないように現場でなんとなく回している、という実体のある善意を感じる。
凸凹した制度でもエンドユーザーがけっきょくはあんまり困らないので、「じゃあこんな感じの制度でいいか」と存続していくんだろうな、と納得してしまう。でも今の仕組みは、何度も県や市に「これどーすかね」と出して、担当者の温度感をもって指摘に対応して、ということを繰り返す必要があって、これは一般の素人にはなかなか大変だし、「補助金受けられるなら移住を決めるけど、もし補助金出ないといなると厳しいなあ」という人の足を止めてしまうから、よくないことだと思う。それほどステップを踏まなくても自分たちの首を絞めている。自分たちというのは県民です。これは移住者支援の補助金の話。
そうすると、自分が迷惑を被ったとして声をあげるのか。これが難しいところで、自分を「この不自然なルールを厳格に適用すると補助金を受けられない」立場だとして公に設定すると、つまり自分も大きな不利益を被ってないといけない。当然、曖昧な運用に乗って補助金受けた方が得なわけです。これは役人が賄賂もらって不正を見逃すのと何が違うんだろうか。自分の不利益を飲んで「これは不適切だ、直さないとよくない」と自治体に言っていけるかどうか、という問題設定なのか。
現実の世界では、同じような不利益を被る人たちが敵にもなるはずである。つまり問題を認識すると同時に制度変更までできないとダメなんだろう。そして遡及して適用はしませんよと。経過措置ももうけますよと。よくみる制度変更のストーリーだ。こうなっていたのか。うーむ。