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日記だよ

「自分が病気だとわかって安心」とか「自分が頭おかしいことに向き合う」とか

なんぞ。

最近そういう言説が増えた(目にする範囲に増えた、レコメンドされるようになったというだけの可能性はある)。自分に対して「壊れた・異常であるもの」という疎外をするメリットをいまいち感じない。大勢の人たちと異なることは別に自分にとってゲームルール以外の認識をする必要はないと思う。

自分は別に頭おかしくはないと思うが、自分のことを頭おかしいと思う人間で社会が構成されていることは理解している、みたいなスタンスではある。自分とは互換性のない共感空間が構築されており、知らないうちに情報交換がされていたり、見えない情報を元に判断していたりする。その程度の問題とも言える。

言語化がうまい人は言語化が必要な環境で育ったからでは」という呟きを先日見かけた。そうなのかもしれない。便利な共感空間の支援を受けられないために自力で自分のことを出力しなければいけない、という側面はありそうである。自分は言語化に困ってる場面でそれを支援する仕事をしている。対象を理解すれば言葉にできる。理解するということは言葉で扱えるということである。言葉で扱おうと努力することは対象を理解しようとすることだ。全部つながっている。

自分のことは自分がよくわかっている、なんていうつもりはないし、医学が積み重ねた知見に対して自分が外れ値であり理論の適用外だと強弁するつもりもない。ただ誰かに「あなたはこれこれだからこういう傾向があるんですよ」と言われたところで苦労が軽減されるわけでもあるまい、と思う。自力で変えられない箇所について「あなたはそこが欠けていてそれが問題なんですよ」と言われたところで欠落が埋まるもんでもない。欠けていることに全く気が付かないとか、直せないことに気が付かず無駄な努力をし続けてしまうとか、まあそういうのだったら第三者から欠けてますよとかそれ直りませんよと教えてもらえたほうがいいのかもしれない。ただそれ何十年か生きてきたら流石にわかっているのではないか、という感じはするんだよな。医者が何を言おうがそれは自分の性質に過ぎないのであり、自分の性質がもたらす周囲との軋轢についてはやはり向き合っていかなければならない。

「俺が周囲に合わせてるんだから周囲も俺に合わせれば良い」くらいの気持ちでバランスをとっていきたい。もっとも、それに対して集団の論理で否決される可能性は当然あると思っていて、それは集団の意思だからあまり文句も言えないところではある。つらいもんだが、流浪して、どこかに行き着くのもあるだろうし、自分がその前に低コストで軋轢を回避するスキルを獲得する可能性に期待したいところではある。

ごく若いうちに、たとえば十代とかのうちに「あなたのそれは直らないそういうものなので直そうとか周囲に言われたことを間に受けて無理しなくてもいいよ」と医師などに言われたら少しは確かに楽な人生を送れたかもしれない。一方で、「無理をして周囲に適用しようとする」プロセスを繰り返すことで身についた技や状況判断というものもあるので、これは生存バイアスではあるが、なんともいえねえなあ、という感じ。少なくとも無理しなくていいのよと不可能なことに挑むのをやめさせることは、そんなに筋の良い教育方法ではないよね。例えば陸上選手は限りなくゼロに近い所要時間で目的地まで移動したいと努力するんだろう、その結果として人類の限界あたりで記録が飽和してくるんだと思うけども、では子供に対して「あなたは100メートルを9秒で駆け抜けることは高い確率でできないので無理するなよ」という意味はあんまりないだろう。限界があるにせよ、限界を突破できないにせよ、限界の中でより高い水準を達成することには価値がある。

「定形発達か、そうでないか」というデジタルな判定はゴミだ。自分にできる範囲で周囲の人との対話のプロトコルを作り、対話していこう。そこにしか社会で生きる術はない。やり方は人それぞれに違いない。みんなそれをやっている。無意識か、そうでないか、いつも同じやり方でなんとかなるか、そうでないかくらいの違いでしょ。という。