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日記だよ

成長の実感について

自分は成長しているか、というのはあまりはっきりと認識できていない。知識は毎日ちょっとずつ増えている。思索が深くなっているかは自信がないが積み重ねはしている。周囲との相対的な位置でより上位に移動しているか、というのは難しい。会社ではどうか、業界では。新しい軸や視点を獲得しているか?

チームメンバーや周囲の人の成長を支援したいという素朴な欲求、本能みたいなものがある。他の人が喜ぶのは好きだ。共感によりこちらも嬉しくなる。人は成長すると嬉しいものである。自分の成長を感じた時の喜び、誇らしさ、わくわくした感じは好きだ。自分の能力が高まると、自分の未来の選択肢が広がる。そういうわくわくがある。

自分の成長そのものが鈍化して、その喜びを得るために他の人を支援しているのではないか。→その可能性はある。

成長が鈍化したのか、成長を感じる神経が摩耗したのか。どちらもあるような気がする。

よせよせ。

「新しいプログラミング言語が使えるようになった」は成長だろうか。パラダイムがたいして変わらない、パッケージシステム、ライブラリ、ベストプラクティス、典型的なユースケースを学んだだけなのでは? 文法? 「使える」のレベルはどうか。以前と同じレベルで自分の成長を感じられるか?

お前はいったいいくつのサンプルWebアプリケーションを作っては捨ててきたのだ。そのリストに一個か二個増えただけではないか? よく知っているものを違う書き方で書いただけなんじゃないか。いままで作れなかったものが作れるようになりましたか。

ただ引き出しが増えるのは成長ではないよな〜。という感覚はある。無数の引き出しを開けてみて、その中身を確認することはどうだろうか。中に入っている道具を使ってみてラベルを更新することは成長ではない気もするが、それをしないと中に入ってるものが腐っている可能性には気がつけない。引き出しにあるものを組み合わせて新しいことができるようになるのはどうか。引き出しの数を考えれば、ほとんどの可能性については試したことはないはずである。可能性は以前からあった。成長だろうか。

うーん。

おそらく「実感」は自分についての自己認識と関係があるよね。考えてみれば当たり前の話だ。自分の何かしらを対象としてみたとき、それが良い方向へ変化していることを知覚してはじめて実感となる。

「自分にはこんな可能性があるのか」「昔の俺だったら見逃してたね」と驚く経験は人生に何度もあって、その驚きこそが自分の(個人的な)成長実感なんだろうな、と納得した。他人から見た成長や進歩とそれはだから一致していない。周りから見たら微々たる変化であっても大きな驚きをもたらすことはあり得るし、周囲には長足の変化と見えていても自分にとっては今までやってきたことの応用にすぎない、といったことはある。

自分について普段から意識しているとこの実感は得られづらいんじゃないか。ものごとに没頭して、無私になって、客観視している気取った自分の目線が消滅して、自分についての理解が連続性をすっかり失っている時、自分についての理解が現実と大きく離れて、アップデートしたときの差分が大きくなる。そういうことなのでは? つまり没頭度合いが少なければ大きな成長実感が得られづらいのでは? 成長角度が同じようなものでも毎日自分についての理解を新たにしていたら、日々感じる変化は小さいなんてことはないか?

「以前はなかなか読みきれなかったこの本の内容がわかるようになった」などもあるな。でもこれも、知識が増えただけの場合と、展開される論を追えるように筋力が増えたのと両者がある。自分の中で、なんとなく違いがある。

ぜんぜんまとまりがない。昼休みにご飯食べて書いている。仕事します。