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日記だよ

「昔・いつも・みんな」よりも「今・これから・私たち」を語らなければならない

経験が増えるとどうしてもパターンに当てはめたくなるし、それ個別最適だよとか、他の人はこうしてるよという差分が気になったりする。

これは今この瞬間に見聞きしている目の前の出来事についてのリアルに得られる情報よりも、蓄積され考え続けてきた経験と考察の量が上回ってしまっているためなんじゃないか、と考えていた。現実を原則のバリエーションとして捉えてしまっているから、原則や経験論に寄ってしまう。

意識的に、自分には「今・これから・私たち」の視点が弱いのだとバイアスを補正していく必要があるのではないか。

ベテラン勢が「昔・いつも・みんな」について語っているとき、それについての知見が求められているのだと感じているとき、現在についてじっと理解して考えることが足りてないように思う。原則や法則、パターンと同じくらい、今まさに目の前にある現在の状況、関わる人たちが見ている同じものを見る目線が必要なのでは?

温故知新はそれはそうだし、過去繰り返されてきた失敗を糧に工学は成り立っていくんだけど、別に我々は工学そのものをやってるわけではなくて、工学的手法を借りて、工学的成果を用いてビジネスとかものづくりに携わっているわけなので、過剰に手法と寄り添うのは危険なことだ。

今の私たちが、これからどうするのかを一人称で考えて実行していく当事者として振る舞っていきたい。知見とパターン認識の手法、リフレーミングのきっかけなどを当事者にもたらすだけの外部者になってしまっては、それはもう面白くないと思うからして。