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日記だよ

いいやり方について

自分が「絶対にこれはいい」と思う道具や仕組みを作ったり啓蒙したりして、しかしいまいち使われなくて、使いこなせない連中が未熟なのだ・組織がダメなのだという姿勢をとるのがいちばん格好わるいので、よい理論を知っている・いいものを作れるのと同じくらい、それが使われるように環境に働きかける力が必要であるという認識をしている。使われないものは無駄だし、機能しないものは無駄だし、目的を達成できないものは無駄だ。無駄なものを作っている時間は非生産的である。使った時間が生産的であったかどうかは、しばらくあとにならないとわからない。

短期的な失敗が人生を左右する状況の人に、長期的なメリットを説くことの無意味さは明らかだ。普段の仕事が忙しいのに突然よくわかないダッシュボードが出現しても見る人はいない。守るためのコストが大きくかかるわりに有益さがわからないルールは守られない。

無益な正しさはゴミだ。正しさが価値があるのは、短期的にも破綻を生まず、長期的な利益が期待できるからである。

「理想的なやり方」が実行されないのは長期的な価値が信じられていない(リスクが大きすぎる)か、短期的に破綻するからである。その状態で理想そのものを説くことに意味はない。短期的な破綻を回避させるか、長期的な価値を十分に示す(あるいはリスクをヘッジする)かしか、理想的なやり方を推進する方法はない。

そこまで考えて、いつも長期的な価値・将来のリスクについて考える。将来のリスクとはすなわち、今この瞬間に自分の理想的と考えるやり方を採用しても将来のどこかでそれが機能しなくなったり、やり続けられなくなったりして、十分な成果を出せない可能性である。十分な成果を出せないなら投下したコストは無駄になる。つまり、やりはじめたら、成果が出るまでやりつづけないといけない。これは「選んだ選択肢を正解にする」みたいな話題にも通じてくる。実行力、やり切る力、みたいな話に収束していく。自分の話ならそれでいいし、組織や他人に対しての働きかけであれば、信頼の話題が顔を出す。

短期的に破綻するのはお話にならない。それは絵に描いた餅でしかない。今この状況において、いいやり方、理想的なやり方ではなかったというだけの話だと思う。