ツイッター的なやつで見かけて。
https://twitter.com/deinotaton/status/1731453650290286692
@deinotaton ASD傾向と自己理解しているいろいろな人と話してきたときに、「語用論が定型的語用論と違うな」と気づいた話を友人としていたのだが、実際に研究もありかなり直観に合う。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjpr/50/1/50_54/_article/-char/ja/
@deinotaton ASD傾向の人が定型文化の人と話すときに困りごととしてある問題の一つは、定型文化の人間が行う発語内行為が不発に終わるが定型文化の人はそれに気づけない、というのがあると思う。発語内行為というのは定型的な言語行為なのだろうと思い興味深い。
ふーむ。語用論というのか。
Wikipedia より
語用論(ごようろん、英: pragmatics)とは、言語表現(英語版)とそれを用いる使用者や文脈との関係を研究する言語学の一分野である。話者のことばの運用 (言語使用) を学問する研究分野であり、その性質等を理論的に解明するアプローチに加え、実験観察等に基づいた言語運用(英語版)の側面からのアプローチもあることから、理論言語学と応用言語学の両方に属する。
言葉、使用者、文脈の関係。はい。自分の話に当てはめてうむむとなってた。
言葉の受け取り方や解釈の仕方がどうもズレることは多い。それによって、行き違いを誘うことがよくある。
「私にはこのようにしか受け取れなくて、そのことは一般と違うのかもしれず、それによって迷惑をかけたことそのものは申し訳ないと心を傷めています。ただ、私があなたの思うように解釈しないこと、それを改善するまであなたから見て十分な努力をしないこと、悪いことだと思わないことについて責めるのはよしてくれませんか。私はかなり大きなコストをかけてあなたの求めていそうな解釈に沿って言葉を扱っているし、多くのことをすでに犠牲にしているから、その非難はいわれのない攻撃だと私は感じます」
というスタンスで自分は生きている。
相手が受けた困りごとや困惑については申し訳なく思うが、自分と相手の間でのプロトコルの構築が未成熟であることに帰する問題については責められても困りますよ、という分離である。ただ、そのように受け止めてもらえないことはある。とにかく自分が相手と異なる言葉の処理形態になっていることそのものは悪いことであると分類したくない、という思いがあって、そこに拘泥はしているかもしれない。(そうしなければ自分そのものが害であるということになってしまうから) そこが「自分の非を認めない」と読み取られてしまう。難しい。
自分はあくまでも「私とあなたの問題」と整理しようとしているいっぽう、相手が「普通の人とおかしな人」とどうしても構図を拡大してしまう場合は平行線になりがちで、すると「おかしな人が自分を正当化している」と姿勢への非難を受けてしまうことになる。
これはめっぽう魂の力を消費するので、なんらかの合意できるフレームがあるといいんだがなあ、と常々考えている。
そんなわけなので、上記のツイートを見てふむふむとなっていた。